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2018/06/17 ハプスブルク家の滅亡について
ハプスブルク家の滅亡について
ハプスブルク家は、ヨーロッパ最大の王朝だった。13世紀から20世紀まで、現ドイツ、オーストリア、スペイン、イタリア、ベルギー、オランダ、チェコスロバキア、ユーゴスラビア、ルーマニア、ポーランド、ハンガリーにまたがる帝国、王国、公国、候国を支配したのは、ハプスブルク家である。たとえば、1452年から1806年まで、ドイツの王冠は常に彼らの頭上に輝いていた。反面、帝国の名の由来となっている領地ハプスブルクは、早くも1653年に皇帝フェルディナント2世の手を離れているのである。
ハプスブルク家はもともとスイスとアルザス地方に所領を持つ一貴族であったが、転機は13世紀に訪れた。この頃ドイツ(神聖ローマ帝国)では諸侯が争い、誰かが皇帝に就くと、一方で反勢力が皇帝をたてるなど、混迷を深めていた。
こうしたなかハプスブルク家の栄華時代が幕を開け、本拠となるオーストリアの支配は以後およそ7世紀にわたった。一時、帝位は同家から離れたが、フリードリヒ3世(在位1440~93)が神聖ローマ皇帝になったのちはわずかな時期を除き、道家が神聖ローマ皇帝位を独占する。フリードリヒ3世がめざしたのは、戦争ではなく婚姻策によってハプスブルク家に繁栄をもたらすことであった。
その子マクシミリアン1世(在位1493~1519)も、婚姻策で他国へ影響力を強める。彼は1477年にブルゴーニュ公の娘との結婚でネーデルランド(現・オランダとベルギー)を得、息子のフィリップとスペイン王の娘を結婚させた。2人の間に生まれたカール5世(在位1519~56。スペイン王としてはカルロス1世、在位1516~56)が祖父の帝位を継いでスペイン獲得し、さらにカール5世の弟フェルディナント1世(在位1556~64)はボヘミア=ハンガリー王の娘と結婚し、ボヘミア、ハンガリーも版図に加えた。こうした状況は当時、「他の者たちが戦争をするなら、幸福なるオーストリアよ、汝は結婚せよ」と表現された。
一大帝国を築きあげたハプスブルク家に対し、これ以上勢力が強まることを恐れた周囲の諸国は、たびたび同家の切り崩しを謀った。国内でも多くの異民族を抱えて国の統一に苦しむなど、数々の問題に直面する。
1806年、フランス皇帝ナポレオン1世(在位1804~14・15)により神聖ローマ帝国は解体されたが、これに先立つ1804年に帝国の宣言をしたオーストリア帝国の君主として、ハプスブルク家の支配は共和政になる1918年まで続いた。
帝国が滅亡したのは、世界大戦に敗れたからである。しかし、ほとんど戦争の最後まで、たとえ戦争に負けても帝国が存続することに疑いはなかった。一方ドイツが勝てば、何らかの形で間違いなく帝国は生き残っただろう。
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